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ミクリッツ

先人達の足跡
2009年9月発行
掲載内容は、情報誌「Ignazzo(イグナッソ)」発行時点の情報です。
ohann Anton von Mikulicz -Radecki
内視鏡検査と近代的な外科手術に関するパイオニア
19世紀の外科学を現在に至る近代外科学へ転換させた偉人

プロローグ

 ミクリッツは1850 年に、父アンドレアス(建築家、チェルノビッツの議員)、母エミリー(プロイセン貴族出身)のもとオーストリア・ハンガリー帝国の一部であったチェルノビッツに生まれました。当初は父の望みに従いピアニストを目指してプラハ音楽学校に3年間通いましたが、ヘルマンシュタットで外科学の教授だった叔父ルーカスの人柄に触発され、結局医学の道を選びました。
 
 1869 年、ウィーン大学医学部に入学しましたが、ミクリッツが学んだ当時のウィーンには多くの偉大な医学者、臨床家が活躍しており、中でもビルロート(Theodor Billroth)教授が外科学、病理学などをリードする象徴的な存在でした。ミクリッツは彼を自らの偉大な教師と考え、ビルロートの下で研鑽を積むことにしました。

プロフェッショナルとしての日々、業績

clinic in krakau
clinic in krakau
 1875年医学部を卒業し、1879年までに鼻硬化症と硬腫(ミクリッツ硬腫)に関する報告など6 報の研究報告を行いました。
 さらに、ロンドンでリスター(Joseph Lister)と仕事をする機会を得、消毒法を学ぶことになりました。そこでは手術室を石炭酸噴霧で消毒しており、石炭酸が創傷部位に悪影響を与えている様を目の当たりにしました。創傷部位が壊死を起こしていたのです。またこの方法は、患者と外科医双方の呼吸器と腎臓の機能にも悪影響を及ぼしていました。
 その後ウィーン大学に戻ったミクリッツは、1881年ヨードホルム(CHI3)がどの様な種類の創傷にも広範囲に適応できると考え、石炭酸に替えてこの使用を提案、開始しました。
 ビルロートのところでは実り多い時間をすごし16報の研究報告を行いました。その主なものは、ヨードホルムを使用した創傷部位の処置、腹部ドレナージに関するもので、ミクリッツintra-abdominal drainage(腹腔内部ドレナージ)と言われ、その功績は食道、胃内視鏡分野に関する事柄と同じく著名なものです。当時、既にウィーンの総合病院での職を得て食道内視鏡の技術的発展、および胃内視鏡開発を主導する機会も得ました。先ず、関連のメーカーと共に、30 度の傾きを持ち先端に照明を備えた機器を考案しました。そして、これが臓器内部の観察が可能となる柔軟性のある内視鏡の端緒となりました。
 1881年、食道内視鏡、胃内視鏡に関する最初の基礎的な報告を行い、1年後には胃内視鏡で12例の胃癌の患者を診るに至っていました。彼は胃癌の内視鏡的イメージ(観察の結果)を詳細に述べ、食道消化器癌診断のための内視鏡の重要さを更に深く認識しました。
 1882年、ポーランドのクラクフ外科病院で革新的な外科措置法、即ちヨードホルムと昇汞(塩化第二水銀:HgCl2)を使用した消毒法と無菌法を導入しました。更にビルロートに続いて、クロロフォルム、エーテル、アルコール4:1:1からなる麻酔薬を使用し、安全な麻酔の導入にも努めました。
 1887 年にはケーニヒスベルク(Koenigsberg)の外科病院に所属することになりました。ここで、現在ミクリッツ病として知られる涙腺と唾液腺の腫れを伴う病気の最初の報告を行いました。
 ミクリッツは涙腺と唾液腺に腫脹を示す極めて特徴的な患者を診察しこれを除去しましたが、何度も再発を繰り返し完治することはありませんでした。そこで病変部を詳しく調査したところ、細胞の浸潤によって涙腺、唾液腺が傷害を受けていることを突き止めました。ミクリッツ病と命名されましたが、これこそが現在シェーグレン症候群と言われる疾病の概念を初めて示したものでした。
 1890年、ブレスラウ(Breslau)病院で外科学の部門を引き継ぎ、1897年、新しい手術施設を作りました。新しい施設は彼自身がデザインし、麻酔、滅菌、および着替えのための部屋が手術室から完全に分離される等、無菌の重要性が考慮されていました。そこは当時のヨーロッパでもっとも進歩的で洗練された手術施設でした。
 ミクリッツの指導の下、ブレスラウの外科医は日常的に滅菌された手袋とマスクを使用するようになり、特に手袋は綿製で密度高く織り込まれたもので、手術の間中頻繁に交換されました。そして手指消毒の徹底、清浄な手術環境、滅菌された手術着、包帯、綿製の手袋、マスクの他に手術帽、手術エプロンを導入しました。
 1897年、泌尿器科の分野で小腸膀胱形成術を成功させる等、彼の偉大な業績は種々の分野にまたがる232報の研究、学術報告に観ることができます。
 更にミクリッツは外科医を養成するための学校をクラクフとブレスラウに設立しました。

エピローグ

 腹部の癌を患い最期を悟ったミクリッツは、友人のアイゼルスベルグ(Eiselsberg)に次のような内容の、最期の手紙を残し、1905年6月14日、55才でこの世を去りました。
 「感謝と満ち足りた気持ちで人生を後にする。ただ一生懸命働くことだけで、多くの賞賛を得られた私は本当に幸せだった。」
 ヨーロッパの複数の国で活動したミクリッツは、そのnationality(国籍、国家)を問われた時、ただ一言こう言ったそうです“ 私は外科医だ”。


Thaddaeus Zajaczkowski, World J. Urol. 26:75-86, 2008
(文責:日本BD 武沢敏行)