ロンドンのソーホー地区で8 月末に発生したコレラは、最初の3日間でブロード・ストリート周辺に127 人の死者を出しました。そして9月10日までに500名が死亡し、死亡率は、ソーホー地区全体の12.8%に達しました。このコレラ禍は、終息する9月末までに616名の死者を出す大疫病となりました。
この災禍、大疫病に遭遇したスノーは、地区住民の事情に詳しい副牧師ヘンリー・ホワイトヘッドと共に徹底した調査を行い、ブロード・ストリートにあるポンプ井戸の水が“コレラを起こす何か”を含んでいる、と結論付けました。
大疫病コレラをこれ以上拡大させないためには、この井戸ポンプの使用を即刻止める以外ないと考え、渋る公衆衛生局にポンプの柄の撤去を認めさせました。柄の撤去後、スノーの予想した通り発病者、死者は急速に減少し、9月末までに終息を観るに至りました。
ところで当時のロンドンは、社会基盤の整わないまま急速に人口が増加し、250万人がひしめき合っていました。人が増えて困るのは排泄物の処理ですが、これを地下室やため池に溜め置くなど、他の日常活動も相まって、悪臭の満ちた都市となっていました。更に1848年の“ 不快除去及び伝染病予防法” 施行後は不快なものは全て川に流し、環境は破滅的と言ってよいほど悪化しました。
このような状況の中、病気の元は空気を伝わる悪臭「瘴気」にあるとする説(miasma theory)が信じられていました。1854年の大疫病コレラも悪臭、即ち瘴気が元凶とされ、特に悪臭の立ち込める最下層に位置する人々の住む地区に患者が多いと、まことしやかに伝えられる有様でした。
そこで、瘴気説にそもそも疑問を持っていたスノーは丹念な調査を行って詳細な住民情報を集め、得られた情報を科学的に分析した結果、原因であるブロード・ストリートの井戸ポンプの特定に至りました。
分析はボロノイ図*を用いた手法で行われましたが、これが正に、現在我々が疫学的手法と呼ぶものの一つで、この手法によって、この井戸ポンプ、即ち水の使用者を中心に患者の広がりのあったことが明らかとなりました。言い換えると、空間的(距離的)のみならず、時間的にもこの井戸ポンプに近い住民が患者の多くを占めたと結論付け、悪臭(瘴気)は無関係であることを疫学的(統計学的)に証明した訳です。
誠実で勤勉な医師スノーは統合的な思想家でもあり、全体を俯瞰する鳥瞰的視点を併せ持っていました。鳥瞰的視点を持っていたので、特定の事象にのみ捉われることなく、全体を俯瞰して情報を集めることができました。また瘴気説と言うパラダイムにも捉われることが無かったので、短時間で原因を特定できたと考えられます。
1854年ロンドンでの大疫病は、ブロード・ストリートの井戸ポンプ近くに住んでいて、最初の患者(指針症例)であった生後5ヶ月の女児から広がったとされています。
下痢で苦しむこの女児の、オムツの洗濯に使用した水を母親が井戸ポンプ近くに捨てたことが感染拡大の発端となりました。そして女児の父親も終息近い9月19日に亡くなり、40番地で始まった大疫病は40番地で終わったと語られています。
参照:*付録CD
(文責:日本BD 武沢敏行)