佐八郎は1910年8月、帰国しますが、1914年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツからサルバルサンの輸入が途絶えると鈴木梅太郎らが合成したサルバルサンの生物学的性能検査を担当、これはドイツ製より品質に優れ、ドイツから輸入できない諸外国も日本に期待して、積極的に日本製を導入するようになりました。また、サルバルサンは梅毒と同種のスペロヘーターによって発症する熱帯地方の皮膚病のフランベジアにも効果が絶大でした。後年、佐八郎がジャワで開催された極東熱帯病学会の会期中、フランベジアが風土病となっていたバンデグランという町を訪れると町民から大歓迎を受けます。サルバルサンによる治療でフランベジアが一掃され、佐八郎は町を救った恩人と崇められ、秦の来訪を記念して町をハタ町と呼んだといいます。
1914年に伝染病研究所が内務省から文部省に移管され、それに怒った北里が辞任して北里研究所を新設すると、佐八郎もそこに移ります。そして、1917年、慶應義塾大学に医学部が新設されたため佐八郎は教授に迎えられ、細菌学と免疫学を教えます。以後、在位20年、病没の年まで勤め上げました。
(文責:長 茂)
参考文献:秦八千代著『秦佐八郎傳』、鈴木昶著『日本医家列伝』、福田眞人・鈴木則子編著『日本梅毒史の研究』思文閣出版、モートン・マイヤーズ著『セレンディピティと近代医学』中央公論新社