現在、多種の耐性菌による深刻な感染症の問題から、初期の代表的な抗生物質ペニシリンを含むかつての抗生物質が見直されている。そもそも抗生物質の歴史はペニシリンの再発見と1943年の大量生産の成功を端緒に、ここから翌年のストレプトマイシンはじめクロラムフェニコール、テトラサイクリン等すぐれた抗生物質が続々と発見され、感染症治療のパラダイムシフトともいえるような抗生物質の時代が到来する。
その一翼を担ったのが、今年で生誕100年を迎える梅澤濱夫である。梅澤濱夫の家は代々の医家であった。遠祖の梅澤良雲は天保10年生まれの医家で、米国人宣教医シモンズ(福沢諭吉の発疹チフスを治療した医師)に学び、外科医として名をなした。また、濱夫の祖父は有能な眼科医であったし、父の純一は東京大学医学部で生化学を学び、小浜病院長を務めるなどいずれもすぐれた医師であった。
濱夫はその名が由来する福井県小浜市に大正3年に生まれたが、父純一が札幌鉄道病院院長に任命され、家族は大正12年、札幌に移った。その後、濱夫は東京に出て進学校の誉れ高い武蔵の中等部から武蔵高校に進む。ここで学問に対する関心が花開く。
恩師の玉虫文一教諭はベルリンでコロイド化学を学び、武蔵高校で化学と物理化学を教え、濱夫をその道に導いた。その後、濱夫は東京大学に進学したが、毎夕、武蔵校内の玉虫博士の根津化学研究所に通い詰め、研究の進め方やその精神を学んだ。
昭和12年(1937)、東京大学医学部を卒業し、同大学の竹内教授の細菌学教室で細菌の取り扱いを身に付ける。その年、南シナでコレラが流行り、帰還兵のために設けられた下関の検疫所で半年間、毎日、千検体もの顕微鏡検査を続け、それが原因で濱夫の左目は右目より小さくなってしまう。
2年後、習志野の陸軍病院に召集され、微生物の発育を阻止する土中の放線菌の研究に没頭する。昭和18年、ドイツの臨床雑誌が陸軍軍医学校に届き、そこに掲載されていた「微生物から得られた抗菌性物質」の翻訳を担当。そこには、1929年にフレミングがペニシリンを発見し、その12年後、フローリーとチェインが粗製ペニシリンの抽出に成功したことなどが記されていた。
そして、当時、病床にあった英国のチャーチル首相がペニシリンで治癒したという報道(誤報)が医療界を駆け巡り、ペニシリンの効果が俄然注目を浴びたため、日本の陸軍軍医学校もその製造に本格的に乗り出した。
濱夫はペニシリン委員会のメンバーに就任、開発に打ち込み、兄の梅澤純夫(後年、慶應義塾大学工学部教授)らの協力のもと上質のペニシリンの単離に成功する。昭和19年には生産会社等の多数の協力により実用化に成功し、多くの敗血症患者を救った。