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はじめに
2002年11月に中国広東省で発生した非定型肺炎を伴う感染症が、変異した新たなタイプの高病原性コロナウイルス(CoV)によることが明らかとなり、ヒトには危険ではないウイルスのイメージが大きく変わることになりました。
Severe Acute Respiratory Syndrome Co V(SARS-CoV:感染症名はSARS)と命名されたこの高病原性CoV は、短期間のうちに周辺諸国のみならず30ヶ国を超える国々に伝播し、9,000人近くの感染者と800人に及ぶ死者を出して、翌年の6月に一応の終息を見るに至りました1)。 9年の時を経て、SARS-CoVの記憶が薄れかかった2012年6月13日、サウジアラビアのジッダで重度の呼吸器症状を示した60歳の男性が医療施設に収容され、11日後の6月24日に呼吸器、及び腎不全のために死亡しました。 臨床症状からウイルス感染が疑われたので、患者の喀痰から得られた試料を精査したところCoV が分離され、オランダのエラスムス大学医療センターでSARS - CoV とは異なる新型のCoVと確認されました2)。 新型のコロナウイルス(CoV)そして、新型CoVによる感染症はMERSと、併せて呼ばれることになりました。 さて分離されたウイルス株は全塩基配列が明らかにされ4)、コウモリのCoV(βコロナウイルス)に近縁であることが示されました2)。 ところで、CoVは(+)1本鎖RNA ウイルス*aで、ニドウイルス目(Nidovirales)コロナウイルス科(Coronaviridae)に属し、α、β、γ、δの四つのサブタイプに分類されています。染色体RNAは27,000から32,000塩基長で、RNAウイルスの中では最長と考えられています5)。 またエンベロープを有して、その表面に存在する20nm前後のクラブ状のスパイクが太陽のコロナのように見えるので、このような名称になりました5)。 MERS(中東呼吸器症候群)感染者の少なさは、SARSには存在した強力な感染源となる患者(super-spreader:10人以上に感染)が、MERSにはいないことに起因している印象を持ちます。 そしてMERS-CoVは感染力が弱く、他人から感染の可能性は約5% という内容の報告も、最近なされています8)。 ところで、コウモリのCoVに近縁であることは既に示されていましたが、最近エジプトでヒトコブラクダ(Dromedary Camel)から分離されたCoVは、ヒトから分離のMERS-CoVに遺伝子(塩基配列)、及びタンパク(アミノ酸配列)の両レベルで極めて相同性が高いとの報告がなされました9)。 何故エジプトで、HCoV-EMC に相同性の高いMERS-CoVが分離、検出されたのか明確な理由は分かりませんが、コウモリからというよりも、アラビア半島から移動してきたヒト(保因者)から感染をしたのではないかとの説が有力のようです。 ヒトへの感染リスクを考えると、コウモリより家畜であるヒトコブラクダが保因宿主(reservoir host)、及び媒介動物(vector)として機能する可能性は否定できません。 そして、このような状況に鑑みて、本邦でも厚生労働省より注意が促されています。 症例定義、及び診断、確認
随時の更新を重ねながら、WHO から症例定義(典型的な症状:Case definition)が提示されています。
http://www.who.int/csr/disease/coronavirus_infections/case_definition/en/ これを基に、本邦では厚生労働省より、情報提供を求める患者の要件が記載されたMERS に関する対応依頼が、患者発生時の標準的対応フローと共に発出されています10)。 (情報提供を求める患者の要件) 次のア又はイの要件に該当する患者: ア. 38度以上の発熱及び咳を伴う急性呼吸器症状を呈し、臨床的又は放射線学的に実質性肺病変(例:肺炎又はARDS)が疑われる者であって、発症前14日以内に対象地域(※)に渡航又は居住していたもの イ.発熱を伴う急性呼吸器症状(軽症の場合を含む。)を呈する者であって、発症前14日以内に対象地域において、医療機関を受診若しくは訪問したもの、MERSであることが確定した者との接触歴があるもの又はラクダとの濃厚接触歴(例:未殺菌乳の喫食)があるもの ただし、ア又はイに該当する者であっても、他の感染症の患者であること又は他の病因が明らかな者は除く。 ※対象地域:アラビア半島又はその周辺諸国 標準的対応フローによれば、地方衛生研究所でリアルタイム逆転写PCR(Real time reverse transcription polymerase chain reaction:rRT-PCR)11) 検査を実施して、陽性の場合は検体を国立感染症研究所に送り、MERS-CoVの確認検査を行って最終の結果を得ることになります。 検査rRT-PCRによる特異的な遺伝子の検出がWHO、及びEurosurveillanceから提示されています。標的となる遺伝子はupE、ORF1a、ORF1b、及びNで、逆転写後の各塩基配列を増幅して検出します12)。 尚、図に示された各遺伝子中の特徴的な塩基配列を標的とするように、Eurosurveillanceでは述べられています。 ・血清学的試験 Nタンパク(核タンパク)、及びウイルス粒子(未加工のMERS-CoV全体)を使用したMERS-CoV抗体の確認がELISA*b、並びにIFA*cによって試みられています12)。 WHO の検査フローによれば、先ず特異性の高いupE遺伝子を標的にスクリーニングして、陽性の場合更にORF1aとORF1b、またはNの各遺伝子を確認、陽性であれば感染者(確認されたcase)とします12)。 感染防御
ワクチン接種が最も有効な手段であることは言を待ちませんが、感染事例の少なさも相まって、未だワクチン開発には至っていません。
尚、ワクチンの候補(E タンパクの欠損したウイルス粒子:rMERS- CoV-ΔE)に関する報告は既にあり、期待を持って今後の進捗を見守りたいと思います13)。 治療
MERS -CoV感染に対応する標準的な原因療法は未だありませんが参照事例はいくつかあり、今後を注視したいと思います。
・インターフェロン-α2b(IFN-α2b)とRibavirinの併用14) MERS-CoVを接種して8時間後のアカゲザルにIFN-α2bとRibavirinを投与したところ、呼吸状態等臨床症状の改善と共に、肺の組織病理学的な所見の改善、並びに炎症マーカーの低下も見られた。そして検出されるMERS-CoV遺伝子もわずかになった(MERS-CoV の増殖が抑制された)等、Feldmann らは報告しています。 動物実験での結果ですが、投与された両剤共に、既に臨床で使用されている抗ウイルス薬なので、慎重な対応が求められつつも、取りあえずもっとも現実的な、原因療法的処置ではないかとの印象を持ちます。 ・融合タンパク阻害ペプチド(HR2P)15) LuらはMERS-CoVの細胞内への侵入を引き起こすスパイク糖タンパク(ウイルス表面のコロナ様スパイク)と親和性の高いペプチド(HR2P)を設計し、まだ培養細胞のレベルですが、細胞へのMERS-CoVの感染を効率良く阻害したと報告しています。 ヒトを含む動物への感染をどの程度阻害するのかは分かりませんが、注目すべき報告ではあります。 ・抗ウイルス薬、Favipiravir(6-fluoro-3-hydroxy-2-pyrazinecarboxamide)16) 抗インフルエンザウイルス薬として承認を受けていますが、抗エボラウイルス活性も有しているのではと昨今話題になっています。更に、インフルエンザ、エボラに限らず、多種の1本鎖RNAウイルスに効果を示すのではとの推測もなされています。 細胞内でfavipiravir-ribofuranosyl-50-triphosphate(favipiravir-RTP)に変換されたFavipiravir は、RNAポリメラーゼにプリン塩基と誤認されRNA の素材として使用されますが、誤認された偽の素材なのでRNA は複製されず、結果としてRNAポリメラーゼ活性、及び対象ウイルスの増殖も阻害されることになります。 このような作用機序に鑑みると、やはりかなり広範囲の抗ウイルス活性を期待できるのではないか、そしてMERSCoVもその範疇に入るのではないかと考えられます。 抗MERS-CoVに関する情報はありませんが、抗MERSCoV薬の候補として期待をするのは、私だけではないように思います。 ・その他 抗ウイルス薬との併用薬として、宿主の免疫調節機能を高める作用(immunomodulatory effect)を有するとされるエリスロマイシン等マクロライド系抗菌薬も、選択肢の一つになり得ると考えられます17)。 更に、RNA干渉を利用してウイルスのメッセンジャーRNAを直接破壊するsiRNA*dや、発現を阻害するマイクロRNA(miRNA)等、RNA医薬の今後にも、併せて注視したいと思います18)。 感染機序、及び病原性
細胞側のMERS-CoV感染に関わる機能レセプターは、Dipeptidyl peptidase 4(DPP4)であることが明らかになりました19)。
DPP4は分化抗原であるCD26と同じものであり、Tリンパ球表面に発現しているので、感染は全身に及ぶ可能性があると思われます。また、CD26は多動物種のTリンパ球細胞でも発現し、またそのアミノ酸配列は高度に保存されているので、ヒトに限らず種を越えての感染も考えられる訳です。 さて、カゼの主な原因ウイルスであるCoVには、多くのヒトが既に感染していると考えられ、従ってその抗体も多くのヒトが有することになります。 ところで、抗体のFcと親和性のあるFcレセプターはTリンパ球、マクロファージ(単球)他の免疫担当細胞の表面に多く存在していますが、MERS-CoVに対する免疫記憶のないヒト(個体)の場合も、MERS-CoVの感染によって、既に有しているCoVに対する抗体と免疫複合体を形成して、免疫担当細胞のFcレセプターに結合します。 その結果免疫担当細胞は刺激され、様々なサイトカインが放出されることになり、強い炎症反応も惹起される可能性が高まります。 これら抗体が個体に及ぼす悪影響を総称して抗体依存性感染増強(antibody-dependent enhancement:ADE)20)と称しますが、ヒト型CoVの感染履歴、並びにMERS-CoVの強い病原性と高い死亡率を見ると、感染者数の少なさは疑念として残りますが、MERS-CoV感染でも同様のことが起こっているのではないかと想像に難くありません。 MERS、及びMERS-CoVに関する知見はまだ少なく、2年の時を経ても不明な事柄が多いとの印象を否めません。 また本邦では感染者が認められていないこと、及び世界的な感染者数の少なさも相まって、一般的な認識、興味は薄れている様に感じられます。 しかしながら、今なお患者は発生し、高い死亡率も維持され続けています。決して根絶された訳ではないので、努々(ゆめゆめ)注意を怠らないようにと、最後に改めて申し述べたいと思います。 (文責:武沢 敏行) *a Positive-sense single-stranded RNA virus(染色体RNA がmRNAとして機能) *b Enzyme-Linked ImmunoSorbent Assay *c Indirect Fluorescent-Antibody test *d short interfering RNA 参照1)~20) CD-ROM に記載 |