研究者への道
ルイ・パスツールは1822年12月27日、フランスのドルの町で、皮なめし職人の3人目の子として生まれました。中学校での成績は目立
つものではありませんでしたが、非常に注意深い観察眼を持っていました。また、父や先祖から意志の強さや知識を得ることの大切さ、強い愛国心など、優れた気質を受け継いだと言われています。パリの高等師範学校(エコール・ノルマル)へ進学する過程で、当時最も有名な化学者の一人であったジャン=バティスト・デュマの講義を聴いたことから、自らの進む道を強く感じるようになっていきました。
化学から細菌学へ
パスツールは酒石酸の旋光性に興味をもち、1848年、光学異性体の現象を発見し、酒石酸のラセミ酸の合成に成功します。1856年、アルコールの製造所から製造の途中でアルコールが変質する問題について原因究明の協力を求められました。そこで発酵の過程で溶液の光学的な活性が現れることを発見します。酵母や乳酸菌と発酵の関係を突き止めたことによって近代微生物学が始まったのです。当時は微生物が空気のない環境でも自然に発生するという「自然発生説」が信じられていましたが、パスツールはガラスの形を工夫したフラスコを用いて実験を行い、1861年に自然発生説が誤っていることを証明しました。ここで使われたのが有名な白鳥の首型フラスコです。発酵の研究の過程で低温殺菌法(パスチャライゼーション)を開発しました。その後も南フランスで猛威を振るっていたカイコの微粒子病や軟化病の研究を行い、微生物によって引き起こされる病気へと研究の焦点が向かっていきました。
研究の中の試練
研究に没頭する中で、パスツールは3人の子どもと父を亡くしています。子どものうち2人は腸チフスでした。さらに1868年には自身が脳出血に倒れ半身不随となります。1870年にフランスがプロイセン(現ドイツ)に破れたことで彼の強い愛国心は引き裂かれました。彼は科学に対するフランスの怠慢と無関心を批判し、物質的な繁栄よりも科学を育て、精神面を向上させることの重要性を力説しています。
医学への貢献
医学の心得を持たないパスツールが医学の誤った理解を正そうとすると多くの医学者から敵視されましたが、彼の研究は徐々に人々の考え方に浸透し始め、彼の考えを支持する者もあらわれてきました。外科手術での消毒方法を発明したジョセフ・リスターもその一人です。パスツールの研究は伝染病の克服へと進み、1877年、家畜の炭疽病やニワトリのコレラの研究から細菌を弱毒化して、それらの動物に接種すると免疫を獲得することを発見しました。1881年には弱毒化した炭疽菌を使った大規模実験を行いワクチンを発明しています。その後、狂犬病のワクチンを発明し、何十頭もの犬で実験を成功させましたが、彼は「ヒトに使用するとなると手が震えてしまうだろう」と語っています。しかし1885年、ジョゼフ・マイスターという少年が狂犬病の治療を求めて彼のもとを訪ねてきました。この少年に狂犬病のワクチンを接種し効果が認められたことから、フランスだけではなく、多くの国から治療を受けようという人々がやってきました。狂犬病のワクチンを接種する研究所はいつも行列ができ、人々を収容するのがやっとだったため、科学アカデミーは専用の施設をつくりました。これが現在のパスツール研究所となっています。
パスツールは家族に対する愛情が深く、注意深い観察眼をもち、正しいことには真摯に耳を傾ける人物でした。初期の研究は産業の危機を救い、ワクチンの発明では多くの人命を救っています。存命のうちから世界的に多くの賞賛が送られ尊敬されていましたが、1895年9月28日、惜しまれながら亡くなりました。彼は今、パスツール研究所の地下に造られた墓所に眠っています。
(文責:日本BD 小林 郁夫)