医学の道へ
1843年12月11日、ロベルト・コッホはドイツのハルツ山地の村クラウスタールに生まれました。父は鉱山技師で、13人兄弟の3番目でした。地方の学校から近くのゲッティンゲン大学に進み、数学と物理学を学びました。その後、医学への道を志し、1862年から医学の研究を開始しました。1868年1月には博士号の学位を取得し、同年3月には医師国家試験に合格しました。ハンブルクの病院およびハノーファー近くの小さな村ランゲンハーゲンで一般開業医として経験を積み、1869年にはラクビッツ(現ポーランド)に移りました。ラクビッツではコッホの勤勉さと腕の良さが認められ、医師としての評判が高まっていきました。その後、1870年に勃発した普仏戦争により野戦病院勤務へ赴きますが、翌年の終戦前にホームタウンであるラクビッツに呼び戻されます。しかし、コッホは田舎の医者で生涯を終えるつもりはありませんでした。ちょうどその頃、新設のボールシュタイン(現ポーランドのボルシュテイン)の地区保健医官の話があり、自ら志願して任用されました。コッホが炭疽と創傷感染症の研究を行ったのはこの地であり、この研究から結核菌・コレラ菌の発見や細菌検査法の確立へと繋がることになります。
細菌研究の基礎の構築
1880年4月、コッホが満36歳の時に首都ベルリンにある帝国衛生局の医官に任命され、最初の助手としてゲオルク・ガフキーとフリードリヒ・レフラーの2人を得ました。ガフキーは日本では菌数の表示で有名であり、レフラーはジフテリア菌の発見者として知られています。その後数人が加わり、コッホはボールシュタインの孤独な研究者からグループの指導者へと変身していきます。まもなくして帝国衛生局紀要第一巻を発行し、その中で純培養のための平板法、消毒に関する論文、炭疽菌の報告文を掲載しました。
1881年8月2~9日にロンドンで開催された第7回国際医学会に出席したコッホは、論文こそ提出しませんでしたが、感染症の原因菌を検索するのに重要な平板法や彼の開発した染色法、固形培地を用いた菌の純培養法などを供覧しました。細菌学的技術についての彼の供覧は好評であり、有名なルイ・パスツールも驚きの声を上げました。この学会で検討された重要な課題が結核でした。コッホは学会終了後ベルリンに戻り、さっそく結核の研究を開始しました。それは8月18日のことでした。
結核菌の発見
コッホが結核菌の発見を発表したのは、1882年3月24日ベルリン生理学会、夕方の月例会議でした。講演会を開始する前に、200枚以上の顕微鏡標本、顕微鏡写真、培養チューブ、培養物を入れたガラス箱、アルコール保存病理材料をテーブルにセットしました。そして、種々の結核材料から桿菌が証明されること、この桿菌は染色性から他の細菌と容易に区別できること、自然結核感染の材料から直接結核菌が分離培養できること、純培養菌を実験動物に接種して結核を再現できること、この病理像は結核材料を接種して発現したものと同一であること、純培養菌で再現した結核結節から結核菌を回収できたことなどを標本写真を示しながら論理的に述べました。この講演は、明快で説得力のあるもので、会場の聴衆からは称賛の声が上がりました。コッホが結核の研究を開始したのは1881年8月18日であり、約7ヵ月後の1882年3月24日に結核菌の発見の講演を行っています。さらに講演後3週間以内にその内容が雑誌に掲載されました。現在のように施設や器具が十分でない当時の状況を考えると、このような短時間のうちに綿密な計画を立て、多くの動物実験を行い証明したことは驚くべきことと言えます。また、早急な雑誌への投稿発表についても、新しい方法や知見を早く共有することで公衆衛生に役立てたいというコッホの思いを垣間見ることができます。
その後
1905年にコッホは結核研究でノーベル医学・生理学賞を授与されました。そして1908年には妻とともに以前よりの希望だった世界一周旅行へ出かけます。ロンドンからアメリカへわたり、ハワイを経由して日本も訪れました。日本には約2ヵ月間滞在し、北里柴三郎とも会いました。旅行を終え、ロンドンに戻ってからも結核の研究を行いましたが、このころコッホの健康状態は良くなかったと言われています。そして、1910年5月27日(満66歳)ドイツのバーデンバーデンでその生涯を終えました。
おわりに
コッホは結核菌だけでなく、炭疽菌・コレラ菌なども発見しました。その他にも顕微鏡の改良や染色法の確立、消毒や滅菌の開発にも力を注ぎ、感染症の研究や対策に果たした役割は大きいと言えます。WHOを含めた世界の結核関連機関は、コッホの歴史的な講演の記念日である3月24日を世界結核デーに定め、現在も結核根絶に向けて活動を進めています。
参考文献:「Robert Kochと結核の研究」日本BD
(文責:日本BD 内生 幸栄)